カジノ界を席巻して歴史に名を残した有名ギャンブラー10名

どの業界にも傑出した努力や才能をもって業界を圧巻する人間はいますが、ギャンブル界には良くも悪くも、人間技とは思えない実績を残した人間が存在します。

ギャンブル界の有名人は、努力してバスケットボール界の頂点にたったマイケルジョーダンより、天才的な頭脳で物理学会に衝撃を与えたアイザック・ニュートンやビジネス界の巨匠、スティーブンジョブズのように秀逸した個人のセンスや肌感に頼る部分が大きいように思います。

では、長い歴史の中でギャンブル界に名を刻んだ有名ギャンブラー10人をご紹介します。

日本で最も有名なギャンブラー

世界的な有名ギャンブラーには、実は日本人も存在しています。

ここでは、ドナルド・トランプ元大統領からカジノへ招待されて大金を持ち帰った人物を一名ご紹介します。

柏木昭男 / Akio Kashiwagi (日本)

柏木昭男の写真


パーソナルデータ

1937年に山梨県で生まれた柏木昭男は、ドナルド・トランプ元大統領とバカラで2度の死闘を繰り広げたことで有名な日本人のギャンブラーです。

柏木昭男は、山梨県の中学校を卒業後、富士山の歩荷 (荷物を運ぶ人) として資金を稼ぎ、料理店を開業しました。その後、1963年に不動産業や金貸業を目的とした柏木商事を設立して、「山梨の不動産王」と呼ばれるまでに成功を収めましたが、その手法が主にバブル特有の地上げで成り立っており、周囲からの評判も良くなかったと言われています。

80年代に入り、柏木昭男はカジノに行ったのを期にバカラへめり込むようになり、世界のカジノを渡り歩き、ハイローラーとしてカジノ界で有名になりました。

そして、1992年1月に河口湖近くの豪邸で、日本刀のような長い刃物でメッタ刺しあった状態で家族に発見されて生涯を終えました。

ギャンブラーとしての実績

1990年にオーストラリアのダーウィン市にあるカジノで、約30億円を勝ち、世界の有名ギャンブラーとして知られるようになりました。

また、ドナルド・トランプ元大統領と二度の死闘を繰り広げた話も有名です。 オーストラリアの一件を聞きつけたドナルド・トランプは、自分の経営するニュージャージー州のトランプカジノ・プラザに柏木昭男を招待して、そこで柏木昭男は最も得意とするバカラを選びました。 柏木昭男のベットスタイルは、毎回$250,000 (当時レートで約3,700万円)をベットするもので、2日間のバカラで$6,000,000 (当時レートで約9億円)もの大金を稼ぎ、カジノ経営者としてのトランプ氏を圧倒しました。

トランプ氏は、数学者や有識者を集めて、どうやればカジノ側が勝てるかを徹底的に研究して、数か月後に再度、柏木昭男をカジノ・プラザへ招待して、柏木昭男も承諾しました。 トランプ氏のリベンジマッチでは、ディーラーとして従業員ではなく、トランプ氏自らが入り、ある意味本当の対決となりました。 中盤まで柏木昭男が$9,000,000近くまで勝っていましたが、トランプ氏と柏木昭男の取り決めのようなものがあり、最終的には柏木昭男が$10,000,000の負けで終わりました。

柏木昭男が亡くなった時には、カジノ側へ13億円以上の借金があったと言われており、見せしめに殺されたという噂もありましたが、本事件の真相は未解決のまま公訴時効が成立しております。

賞金稼ぎで有名なギャンブラー

世界で賞金稼ぎとして有名になるギャンブラーは、どのくらいカジノで勝ったのでしょうか。

最も有名なギャンブラー3名ご紹介します。

ケリー・パッカー / Kerry Packer (オーストラリア)

ケリー・パッカーの写真


パーソナルデータ

1937年12月17日にオーストラリアのシドニーで生まれたケリー・パッカーは、世界的に有名なオーストラリアの大富豪であり、ギャンブラーです。

学生時代に様々なスポーツでマルチな才能を発揮して、祖父の代から続く新聞会社を父親から受け継ぎ、オーナー業としてメディア業界を先導しました。また、クラウンメルボルンなどオーストラリアの豪華カジノリゾート施設のオーナーとしても有名です。

ギャンブラーとしての実績

ケリー・パッカーのギャンブラーとしての有名な実績は、ラスベガスのMGMグラウンドカジノで、ブラックジャックを1時間30分プレイして約30億円もの大金を稼いだことです。

ブラックジャックには、数学的に勝つための戦略がいくつかあり、最も有名な手法に「ベーシックストラテジー」と言われるものがありますが、これを一切無視したプレイスタイルだったと言われており、確立されたベーシックストラテジーの理論が揺らいだこともありました。

2015年12月に心臓や肝臓の病気で亡くなった時の資産総額は7,000万円以上にも上りました。

アドナン・カショギ / Adnan Khashoggi (サウジアラビア)

アドナン・カショギの写真


パーソナルデータ

1935年7月25日にサウジアラビアで生まれたアドナン・カショギは、サウジアラビアの武器商人として世界的に有名なギャンブラーです。

アドナン・カショギは、アメリカで高等教育を受けて、正規で武器取引の仲介手数料を得て功をなしましたが、各国の政界人や権力者などと、黒い噂もあったと言われております。

アドナン・カショギは1997年にダイアナ妃と事故にあったドディ・アルファイドの叔父としても有名ですが、パーキンソン病を患っており、2017年6月に亡くなりました。

ギャンブラーとしての実績

ドディ・アルファイドのギャンブラーとしての有名な実績は、バカラで勝ちすぎてヒルトンインターナショナルホテルの売上を10%前後下げたことなどです。

ドディ・アルファイドがロンドンを訪れる時には、毎回バカラで数億円を動かしていた逸話も残されておりますが、数か月で10億円以上もの負けが続いたこともあるようです。

フィル・アイヴィー / Phil Ivey (アメリカ)

フィル・アイヴィーの写真


パーソナルデータ

1976年2月1日にアメリカニュージャージー州で生まれたフィル・アイヴィーは、貧しい家庭で育ち、いつの日かお金を稼ぐことが人生の目標になっていました。

フィル・アイヴィーは、23歳という若さでポーカーの大会を制して最年少プロポーカーとして一躍有名になった後は、お金を稼ぐことより「ポーカー」をプレイーできることに喜びを感じるようになり、ポーカーで稼いだお金の一部を様々な慈善団体にも寄付しているようです。

ギャンブラーとしての実績

ドディ・アルファイドのギャンブラーとしての有名な実績は、やはり23歳の若さにもかかわらず自らの力でミリオネアまで登りつめたことです。

様々な大会で優勝していき23歳の若さで約111億円を稼ぎ、「ポーカー界のタイガーウッズ」とまで呼ばれるようになりました。

フィル・アイヴィーは、ポーカーの勝敗で得る金額は隠しており、正確な数字は誰にも分かりませんが、慈善団体の寄付や他スポンサーの契約などからミリオネアは間違いないでしょう。

大金を溶かした有名ギャンブラー

有名ギャンブラーには、我々が一生働いても稼げない大金を一晩で負けてしまう強者が存在します。

大敗した有名なギャンブラー3名ご紹介します。

テランス・渡辺 / Terrance Watanabe (日系アメリカ人)

テランス・渡辺の写真

パーソナルデータ

日系アメリカ人として生まれたテランス・渡辺は、20歳の時に父親の経営する輸入販売会社の社長に就任して、凄まじい早さで事業拡大を成功させました。

年間で粗利益250億円規模の企業にまで成長させた実績から、テランス・渡辺は経営者としての才覚もあったと思われます。ただ、私生活では最愛のパートナーになかなか巡り合えず、カジノにのめり込むようになったと言われています。

ギャンブラーとしての実績

テランス・渡辺のギャンブラーとしての有名な実績は、爽快な負けっぷりが有名です。

1日で4億円以上の負けることもあったテランス・渡辺は、5年間で合計約220億円を負けたと言われています。ここまで負けるギャンブラーも珍しいですが、ここまで負けると諦めがつくかもしれません。

フアド・エル・ザヤット / Fouad al-Zayyat (シリア)

フアド・エル・ザヤットの写真


パーソナルデータ

1941年にシリアで生まれたフアド・エル・ザヤットは、企業経営者、投資家、ギャンブラーという多才の持ち主です。

また、フアド・エル・ザヤットはアメリカの議員と会談してカジノの無料チップを賄賂として献金することで自分の事業を有利に進めようとするなど、違法ではありますが、実業家としての交渉能力も高かったように思われます。

ギャンブラーとしての実績

フアド・エル・ザヤットは、カジノ界で「The Fat Man (ファットマン)」という異名で知られており、ロンドンのハイクラスカジノに600回以上通い、約10年で48億円もの金額を溶かしていると推定されています。

最終的には、小切手の不渡りで約数億円のカジノ負債を追っていたようなので、恐らく50億円以上の負けたがあったと思われます。

カメル・ナシフ / Kamel Nacif

カメル・ナシフの写真


パーソナルデータ

1946年にメキシコで生まれたカメラ・ナシフは、繊維事業で巨万の富を築いた人物です。

我々の誰もが知るカルバンクラインやトミー、ギャップなどのアパレルブランドのジーンズを製造していた会社と業務提携して自分の繊維事業を成功させました。

ギャンブラーとしての実績

カメル・ナシフは、カジノを趣味として年間に何度もラスベガスを訪れており、バカラ1ラウンドで$200,000 (約2千万円)を賭けるハイローラーとしてカジノ界でも有名なギャンブラーでした。

ただ、カメル・ナシフはカジノを趣味の一つとして考えていたようで、勝ち負けのこだわりよりエンターテイメント性を重視していたようです。

頭脳派の有名ギャンブラー

数学理論を応用しているカジノでは、確率や統計学、数列などに強いギャンブラーには、簡単なゲームなのかもしれません。頭脳で稼いだ有名なギャンブラー3名ご紹介します。

エドワード・オークリー・ソープ / Edward Oakley Thorp

エドワード・オークリー・ソープの写真


パーソナルデータ

1932年8月14日にアメリカシカゴで生まれたエドワードは、日本でも有名な映画「ラスベガスをぶっつぶせ」のモデルとなり、映画のなかで学生が大金を稼ぐために使っていた「カードカウンティング」という戦略の考案者でもあります。

名門カリフォルニア大学ロサンゼルス校の物理学科を卒業後、MIT (マサチューセッツ工科大学) の数学者として教鞭をとっていたエドワードには、金融工学者としての顔もあり、カジノのような確率統計論には人一倍強い頭脳を持っていました。

ギャンブラーとしての実績

エドワード・オークリー・ソープは、先述した有名ギャンブラーのように大金を動かした人物ではないが、自ら確率論を応用して最も勝てる可能性の高い「賭け方」を証明しました。

ただ、あくまで理論上の話でしたので、自ら実践で立証するために約100万円を投資して、結果的に2倍以上に増やした経験をもつ非常に頭脳派ギャンブラーとして有名です。

エドワードが証明した「カードカウンティング」という戦略は彼の著書でも出版されており、世界中のギャンブラーが使うようになりましたが、多くのカジノで大損失が出るようになり、現在ではほぼ全てのランドカジノがカードカウンティングを禁止しています。見つかれば出禁になるようです。

ドン・ジョンソン / Don Johnson

ドン・ジョンソンの写真

パーソナルデータ

1962年にアメリカで生まれたドン・ジョンソンは、もともとオレゴン州の競馬場で管理者として働いており、そこで得た経験をもとに競馬のベット方法を予測するシステムを構築して会社を設立しましたが、経営者として成功を収めることはありませんでした。

ドン・ジョンソンがギャンブラーとして有名になったきっかけは、2010年にブラックジャックで巨額な富を手にしたことです。

ギャンブラーとしての実績

ドン・ジョンソンは、自信がハイローラーとしてVIPの待遇であることを自覚していました。これを利用して、我々日本人の常識では決められたルールの範囲で如何に勝つかを考えますが、ドン・ジョンソンは自分で勝てるルールを決めて、カジノ側にルールを変えさせる交渉に出ました。

ブラックジャック一筋のハイローラーであるドン・ジョンソンが交渉してきたということもあり、勝ち額の上限を設けることでカジノ側も合意しました。ドン・ジョンソンに不正がないかスタッフ総動員で監視しましたが、正々堂々とプレーしたドン・ジョンソンは、その日12時間余りで$6,000,000 (約6百万円)の賞金を稼ぐことになりました。同様の方法で他2つのカジノから合計で$1,500 (約1,500万円) を稼いだドン・ジョンソンは多くのカジノで歓迎されない客としての扱いを受けるようになりました。

ドン・ジョンソンの交渉では、カジノ側がハウスエッジ (控除率)の計算を間違えて承諾したともいわれており、頭脳派の有名ギャンブラーと言えるでしょう。

ビリー・ウォルターズ / Billy Walters

ビリー・ウォルターズの写真


パーソナルデータ

1946年7月5日にアメリカケンタッキー州で生まれたビリー・ウォルターズは、貧国な家庭に生まれて、彼が1歳の時に父親が他界しました。さらに、5歳になるころには母親がアルコール中毒で入院してしまい、兄弟と親戚の家に預けられることになりました。それでも満足に毎日の生活を送ることができず、ビリー・ウォルターズが7歳のころ、自分で貯めた貯金$40と借金した$90で草刈り事業を開業しました。

しかし、13歳になるころ親戚のおばが病に倒れ、母親のいるケンタッキー州に戻ることになりました。

ここから事業で貯めた資金をスポーツブックの野球に全額ベットして大敗するも、20歳を超えるころまでスポーツブックに賭け続けました。結果的に負けは、$50,000 (約500万円)まで積みかなり、20代で自宅も失い借金を返済するために毎日働き続けることになりましたが、ビリー・ウォルターズは賭け事を諦めませんでした。

ギャンブラーとしての実績

ビリー・ウォルターズの有名な実績としては、30歳を過ぎた頃、見事に$3,800,000 (約4億円)の賞金を稼ぎ、その数年後ライスベガスで$400,000 (約4,000万円)を手にしたことです。ここからビリー・ウォルターズの才能が開花されていきます。

そして、スポーツブックの賭け方をコンピュータ分析するチームに入り、年間38連勝の成果を上げて莫大な資金を稼ぎました。ビリー・ウォルターズは周囲から賭け方のアドバイスを求められるようになったせいか、この時期にはギャンブル人生を終わらせて起業家としての道を歩き出しました。

まさに頭脳と努力で人生を変えた有名ギャンブラーと言えるでしょうか。

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CasinoTopsOnline編集部

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Casino Tops Online Japanサイトの編集部は、オンラインギャンブル業界での豊富な経験と知識、そしてネットワークを武器に、日々オンラインカジノやブックメーカーのレビューを行っています。私たちが行うレビュー評価は、ネット上の評判や口コミはもちろん、実際に登録・プレイしてみた実際の感想をもとに実施。何よりも、安全性と信頼性を最優先し、少しでも怪しい・イカサマなカジノサイトには警鐘を鳴らし、登録を考えているプレイヤーの皆さんの実践的なアドバイスとなるよう努めています。

監修: 和希愛

編集長